2020年2月3日月曜日

坐禅の奥義にして基本!それは脱力!

坐禅の基本は、とにかく力を抜くことにある。
道元禅師は「身心脱落」と表現した。
なぜかと言えば、我々が心の中で何か考え事をしていると、必ずどこか身体に力が入るはずだ。感情の動きにも必ず緊張が走る。
試しにお風呂に浸かって完全にリラックスした状態で怒ってみて欲しい。まず、怒れない。
怒る時には手や肩や腹に力が入るはずだ。
つまり、感情の動きや思考は身体に反映する!
逆に言えば、身体を使って心も操作できるということだ。
力を手放せば、心の拘りも手放すことができる。
だから、坐禅だけでなくあらゆる身体技法では脱力が求められるのだ。

坐禅に際して、まずは念入りに首筋の力を抜く!
ふにゃふにゃにな~る!とイメージをしっかりして、息を吐くたびに力を抜いていこう!
首・肩は力が入りやすい部位だ
ここが抜けたらあとは順番に脱力してゆく。
背中、腹、脚、と上から下まで力を抜く!
ポインツは息を吐く時に脱力することだ。
人は息を吸う時に交感神経が刺激される。
また、力を入れた時にも交感神経が優位になる。
逆に息を吐く時には副交感神経が刺激される。
また、脱力は副交感神経を優位にする。
瞑想には副交感神経を優位にせんといかん。
だから、息を吐く時に脱力することが深い瞑想に至る近道なんだ。
腹式呼吸をしようと思うと、息を吐く時に腹に力が入ってしまう。
これではアクセル踏みながらブレーキかけるようなもんだ。
脱力からの吐氣!
脱力からの跳躍!
脱力からの集中!
これが坐禅の奥義であり、あらゆる武術の奥義でもあるんだよ。

2020年1月28日火曜日

実践!歩き禅

‪それでは今回は歩き禅をご紹介しよう!‬

‪歩いて禅なんか出来るの?と疑問を持つ方も多いと思う!‬

‪だが、仏教ではかなり初期から行われている。‬

‪これはなぜかというと、実は人は歩くと脳波がθ(シータ)波になる。‬

‪θ波は深い禅定に入った禅僧や、学習に没頭している学者と同じ脳波である。それがなんと誰でも散歩すれば出てくるのである!‬

‪それは昔、人類が狩猟採集生活をしていたからなんだ。‬
‪歩き回ってどこに食料があるか、危険な場所があるか、水があるか記憶しないと死活問題だ。‬
‪現代みたいにいつでもコンビニがあるんじゃないからな!古代人は常日頃遭難しているようなもんじゃ。‬

‪だから歩くと脳がフル回転して学習記憶モードになるんだ。そのためにθ波になると言われている。‬

‪この歩き禅で有名なのは知恵第一の仏弟子・シャーリプトラの入信のエピソードだ。‬

‪シャーリプトラがまだ仏弟子になっていない頃、彼はすでにインドを遊行する修行者のリーダーだった。‬
‪弟子も500人もいたと云う。‬
‪彼はお釈迦様より年上だし、一つの教団を成していたんだ。‬

‪そのシャーリプトラが街を歩いていると、1人の修行者が歩いていた。‬
‪その修行者が歩いているさまは、作法にかない、精神が集中し、落ち着き払って、実にみごとなものであった。‬
‪歩き禅をしていたんだ。‬
‪シャーリプトラは驚いてその修行者に教えを乞うた。どんな教えで、だれから教わって修行をしているのかと。‬
‪すると修行者は、「わたしは未熟者ですので説法などできません、師に聞いてください」と言う。‬
‪その師とはお釈迦様だった。‬
‪シャーリプトラは500人の弟子を引き連れてお釈迦様に弟子入りしたんだ。‬
‪シャーリプトラは般若心経でも舎利師として登場する。お釈迦様の一番弟子、智慧第一のシャーリプトラが入信したきっかけが歩き禅だったんだ!‬


‪それでは歩き禅のやり方をお話したい!‬

‪一般的に健康的な歩き方というやつは、ウォーキングの歩き方だ。‬
‪腰を高い位置にして、おへそのあたりから脚が始まるイメージで、腰を回転するようにして、ひざをなるべく真っ直ぐにして、手を大きく振って、大股で颯爽と歩く。‬
‪これはリフレッシュしたり身体を鍛える目的なら大正解なんだが、瞑想にはほど遠い。‬

‪① 先ずはリラックスして立つ。‬
‪上半身の余分な力を抜く。上半身は坐禅と同じと考える。‬

‪② 次に頭を上に伸ばし高い視点になるようイメージする。‬
‪イメージで良い。無理に伸ばさない。余計な力がかかるからだ。‬

‪③ 目は半眼が理想。外を歩く時は危ないので普通の目線でよい。‬
‪いずれにしても地平線を見据えるような感じだ。‬

‪④ 臍下丹田を意識する。‬
‪臍下丹田はへそのちょっと下にある。‬

‪⑤ ひざをちょっと緩めて重心を下げ、丹田が身体の中心になるイメージ、重心は臍下丹田から垂直に大地に落とすイメージ。‬

‪⑥ 歩き出す時に臍下丹田に地平線と並行した一本の線が貫いているというイメージをして、引っ張られているとイメージする。‬
‪丹田を基準とした並行移動だ。‬

‪⑦ 脚の進め方は、ゆっくりめに、摺り足のようにする。‬
‪膝は伸ばしきらない。‬
‪摺り足といってもそんなに特殊な歩き方ではない。‬
‪なるべく地面から足を上げないように歩く。足で地面を確かめるように。スキャンするようなイメージ。‬
‪歩くごとに地面から蓮華の花が咲き、花の上を歩いているイメージをすると完璧。‬

‪しっかり内側の筋肉を使う。内腿・足の内側が長くなるようにイメージします。拇趾球踏み締めて、足の指で、しっかり、送り出す。‬
‪骨盤は、安定させて、股関節で歩く。‬
‪外反母趾や扁平足、アーチの潰れてる人は要注意です。‬
‪外側の筋肉を使うのでそうなるのです。‬

‪⑧ 呼吸は鼻から息を軽く吸って、口からすこしずつ吐いていく。‬
‪歩くリズムに合わせるとやりやすい。‬
‪1歩で息を吸い、2,3,4,5,6と吐いていく。‬
‪或いは1回吸って2回吐く、でもよい。‬
‪これはご自分の身体に聞きながらやってくれ!‬
‪一番気持ちの良い方法でやればいい。‬
‪コツは臍下丹田を意識しながら吐く息を長くすることだ。‬
‪苦しくなるようなら普通の呼吸、歩法に戻ること。‬
‪また、過呼吸にならないように。ゆったりした呼吸を心掛けよう。‬

‪是非散歩の時など、やってみて下さいね!‬

2020年1月25日土曜日

ストレスに打ち勝つ坐禅の力

ストレスに弱い人ほど、自律神経の働きが良くないと言われています。
ストレスに耐えることのできる力を「ストレス耐性」と言いますが、このストレス耐性の弱い人が「自律神経失調症」になりやすいと言われているのです。
ストレス耐性の弱い人とは
1  神経質
2  几帳面
3  完全主義
4  執着心が強い
5  気持ちや感情を強く抑制する
6  マイナス思考が強い
7 気分が沈み込みやすい
これらが当てはまる人は、癌・心臓病・うつ病・胃腸病になりやすいと言われています。
なぜ、これらの心の傾向から抜け出せないのでしょうか?
それは、こういう人は「親の人生」を歩んでいるからなのです。
「幼い時受けた親からの命令」を、深層心理の奥に抱え込んでいる人なのです。
1  神経質
2  几帳面
3  完全主義
これを見ると思い当たるものがある人は多いものですが、
子供の時「かたずけなさい」とか「きちんと最後までしなさい」とか、親からきつく言われたことが多い人です。
すなわちこれらは、自分の自発的な気持ちではなく、「親の気持ち」です。
自分の心の中に、いまだに幼い時に言われた親の言葉を引きずっているのです。
言い換えれば、自分の心の中に「親という自分以外の心」があって、それが命令を出しているのです。
その命令にいやいや従うから、「5  気持ちや感情を強く抑制する」「6  マイナス思考が強い」になっています。
親から怒られるのを極端に恐れているから、几帳面で完全主義になるのです。
親から「手を洗いなさい」と言われたら、「洗ってもまだばい菌が残っているかも?」と不安でたまらないのです。
ばい菌がこわいのではなく、親から怒られるのがこわいのです。
これが潔癖の、真の正体です。
だから不必要なまでに、手を洗ってしまう潔癖症になります。
こういう人がこの問題を解決する唯一の方法は、「自分の心」を取り戻すことです。
自分の心の中にある「親という自分以外の心」があることを自覚する、常に自覚するだけでやがてそれは消えていきます。
なぜなら、自分の心の中にある「親という自分以外の心」は、自分が作りだした幻想だと気が付くことができるからです。
親が植え付けたものではなく、自分が作りだしたものなので、自分で消すことができると気が付くことができます。
これこそがストレスに打ち勝つ精神力を手に入れる唯一の方法です。
自分の心に気づく力を増大させる。
つまり、坐禅・瞑想をすることです。
坐禅を通じて自分の心に気づく事で、自分の人生を歩むことができるようになるでしょう。

2020年1月15日水曜日

日本の寺院の在り方を問う

葬式仏教と批判されて久しい。

現代の仏教寺院の行うことが何かといえば、それはお葬式と年回忌日法要、いわゆる法事だと思われている。

とくに戦後は寺院の世襲化が進み、一般の方々は仏教は葬儀をするものが当たり前で、それ以外の活動はどうも不自然な印象があると思われている。

僧侶が主に葬儀を行うようになったのは、実は約800年ほど昔の鎌倉時代から。

それは風水害の飢饉や疫病で多くの人が亡くなったため、仏教は苦悩を解決する宗教だからこそ死に対する苦しみを取り除くことを行った。

ご親族・故人と親しい方々の苦悩を解決するための手助けをするようになったのだ。

それが葬儀や法事であり、それは当時の民衆の寺院に対する要請だったと言える。

だがその一方で、お灸を据えたり、薬草を採取し丸薬を作り配布したり、病気を取り除く祈祷、坐禅を通じての心の治療なども行ってきた。

このようにご説明すると皆さん一様に驚かれます。葬儀法要だけが寺院や僧侶のお仕事、いわゆる、業務と思っている方が多いのです。

しかし、仏教は苦悩を解決する方法論であり、寺院はそのために存在するのです。

読経、坐禅止観、聞法、写経、御詠歌、こうした方法を用いて人生の苦悩を減らし元気に明日を生きてゆく糧を提供するのが仏教寺院の本来のありようです。その活動の一部が葬儀・法事なのです。

皆様もぜひお近くの仏教寺院にお出かけいただいてその方法論を試して頂きたいと思っております。

2020年1月13日月曜日

いただきます ごちそうさま

食事を頂くときには「いただきます」食後には「ごちそうさまでした」と言いますね。

「いただきます」には、お肉や魚を食べる時に「命をいただく」という意味と、食事を頂けることへの感謝の気持ちを表す意味があります。

考えてみれば、我々は命あるものからしか命をつなぐことはできません。

岩や砂を噛んでも命をつなぐことはできないのです。

これから生きていこうとする生命力を横からいただくことで自分の命を存えているのです。

では「ごちそうさまでした」はどうなのでしょうか・・「ごちそうさま」は漢字で書くと「御馳走様」となります。

ご馳走とは「客のために奔走して材料を集め食事を出してもてなす」ことです。

実は「馳走」は仏教から出た言葉なのです。

仏教では、台所の神さまとして「韋駄天」が出てきます。

韋駄天は、足の速い仏法の守護神として有名です。

お釈迦さまが亡くなられた後、仏舎利(ぶっしゃり)を奪って逃げた「捷疾鬼」を追って、仏舎利を取り戻したというお話から「韋駄天」と言うと足が速い形容詞になったのです。

その韋駄天が、お釈迦さまの為に駆け回って食材を集めてきたという話もあります。

仏教の本来の「馳走」とは、この韋駄天の話から、食事だけではなく「他の人の為に奔走して功徳を施して救う」とか「苦しんでいる人を助けること」をも馳走と言います。

食事も実は止観であり修行と同じであると天台宗では考えます。御馳走によって大変意義深い修行をさせてもらい、命を繋がさせていただける、そのお礼が「ごちそうさま」という言葉なんですね。

2019年12月25日水曜日

元三大師 ‪鬼の姿で描かれる大師‬とは!?





大師というと、真言宗の開祖・弘法大師空海さまを連想する方が多いと思う!

天台宗においては宗祖の伝教大師最澄さまも有名だが!人気のあるお大師さまといえば元三大師(がんざんだいし)良源(りょうげん)さまです。

正式な大師号は慈恵大師(じえだいし)といわれます。大師の御命日が一月三日・元旦の三日ということで俗に元三大師と親しまれるようになりました。

良源さまは第十八代天台座主で、天台宗の密教の大成者です。比叡山の経済的基盤の確立や、焼けたお堂を建て直し、学問的な興隆・教団内の規律の維持など、さまざまな功績があり、延暦寺中興の祖といわれております。
もちろん鬼のような人ではなくて、大変美男子で、宮中の女官にモテモテで、あまりに騒がれるので豆のように沢山の小さい身体に化身して宮中の御用を済ませたというお話もあります。

普通のお坊さんのお姿で描かれた像も多くありますが、鬼大師と呼ばれる鬼のお姿で描かれた絵や像も沢山あります。
この鬼のようなお姿に描かれたのは理由があります。

お大師さまが七十三歳になられた貞観二年(九八四)、世間では恐ろしい病が流行っておりした。
ある日の夜、簫々たる風雨で、ただ一人居室に座禅を行じておられました。夜も更けて来た頃、不意に一陣の風が、さっと室に入って来ましたので、禅定を出て御覧になりますと、残燈の影に、怪しい者が居りましたので、
「そこに居るは何者ぞ」
と静かにおたずねになりますと、
「私は疫病を司る厄神であります。いま、疫病が天下に流行しております。あなたもまた、これに罹られなければなりませんので、お身体を侵しに参りました」
お大師さまは、
「疫病の神となぁ。私もまた、逃れられないとのこと、因縁を逃れ得ぬもまた当然、止むを得まい、一寸、これに附いて見よ」
と言って左の小指をお出しになりました。
厄神がそれに触れたかと思うと、お大師さまの全身が忽ち発熱して、堪えがたい苦痛を覚えられましたので、心を寂静にして清め、仏の教えを観じて、弾指(たんじ:指をはじくこと)せられました。厄神は弾き出され、伏しころびながら逃げ失せ、お大師さまの苦痛は、忽ち恢復せられました。お大師さまは、
「わずかに一指を悩めるさえ、このような苦しみを覚えるに、全身を侵され逃れる術を知らぬ人々は、何としても気の毒である。これは、一時も早く救わねばならない」と思召され、夜の明けるのも待ちかねて、弟子たちを呼び集められました。

「鏡を持って来てくれ、そうして、私がその鏡に姿を写すから、心ある者が、それを写し取ってくれよ」
お大師さまは弟子たちが運んで来た全身写しの大きな小判型の鏡の前に座を占められまして、観念の眼を閉じ静かに禅定に入られますと、不思議にも、鏡に映ったお姿が始めお大師さまの姿であったのが、だんだんと変りまして、最後には、骨ばかりの鬼の姿になりました。見ていたお弟子たちは、あまりの恐ろしさに、その場にひれ伏してしまいました。

しかし、明普(みょうふ)阿闍梨だけは、気丈な上に、既に法力で閻魔の庁に行き、獄卒を見ておりますし、絵心第一と普段から自負しておりましたので、恐れることなく鏡を見ては画き、画いては鏡を見まして、残るところなくそれを写し取りました。
禅定からお出ましなされたお大師さまが、これを御覧になりまして、満足に写しとれたという面持ちで、
「これでよい、これでよい、これを直ぐに版木におこし、お札に摺っておくれ」とのお言葉。
お弟子たちが、版木に彫り、お札に摺り上げますと、お大師さま御自身で、開眼(かいげん)の加持(かじ:魂をいれる作法)を施されて、
「一時も早く、これを民家に配布して、戸口に貼りつけるように申しなさい。この影像のあるところ、邪魔は怖れて寄りつかないから、疫病はもとより、一切の厄災を逃れることが出来るのじゃ」
お札を頂いた家は、一人も流行病に罹りませんでしたし、病気に罹っていた人々も、ほどなく全快して、恐ろしい流行病も、たちまちに消え失せ、人々は安堵の思いを致しました。

このことがありましてから以来は、このお札を角大師と称えて、毎年、新らしいものを求めては戸口に貼るようになりました。疫病はもとより、総ての厄災を除き、盗賊その他、邪悪の心を持つ者は、その戸口から出入り出来ないということで、日本全国、何れの宗派に属する寺院も、正月にこの影像を檀信徒に配布して、その年の厄災を防ぐような慣わしになりました。

寶泉寺では元三大師供養を正月三日に行い、元三大師のお札開眼をしてお配りしております。


宝泉寺の元三大師御札

2019年10月3日木曜日

空とは何か 空観の秘密に迫る

心の中に世界が存在しています。

現実にある世界をまるまるコピーした世界です。


現実の世界を心の中にコピーしないと認識できませんね。


我々は心の中の世界を見ながら生活しているのです。


心の中だけの世界といっても知覚している全てですから、大変広大な世界です。

 この心の中の世界だけがリアルであり、それ以外は存在していてもその存在を証明できず、脳内の情報こそ現実であると考えるのが「空観」です。

空観とは知覚している全てです。


空というのは、「自分の知っていること全て」ということです。


全ての存在が空だとすると、認識している自分が知らないものは存在しないと同じだからです。


空なる境地とは、自分が知っていること全てを理解している状態、ということです。


自分が知っていることは知っているんだから理解して当たり前じゃないの?と思うかもしれません。


ところが、盲点があるのです。何かに通暁すればするほど盲点が大きくなるのです。 


知ることによって知らないことが生まれます。


ですから生まれたばかりの赤ちゃんは何も知識がないので、盲点はありません。


空に生きている。


それが知恵を身につけると盲点がだんだんと増えてくるのです。


ではなぜ盲点があるのか。


それは脳の処理を軽くするためです。


時々刻々と六根から情報が脳に伝達してきますが、全てを処理しきれません。


膨大な情報です。


脳は視覚だけでもスーパーコンピュータ並みの処理をしています。


それを抽象化して処理を軽くしています。


たとえば


今、何時ですか?ご自分の腕
時計を見て下さい。

次に、今度は時計を見ないで、時計のデザインはどんなものか、絵に描いてください。


描けましたか?

実際の腕時計と比べてみましょう。

時計の針のデザインは?文字盤は?数字のフォントは?


多分実物とは全然違うデザインに描くと思いますよ。


時間しか見ていないのです。重要と思う情報のみ認識して、あとの情報は切り捨てているのです。


これが盲点、ストコーマです。


空の境界、境地とは盲点の無い状態です。


自分の知っていること全てがフルオープンの状態。全てが分かった!と感じる状態です。

つまり、悟りの境地です。