2021年5月11日火曜日

御詠歌の源流を訪ねて 父母の恩について詠じた最古の仏教の和歌

 「父母へのご恩を讃える」と申しますとよく言われるのが「それは仏教ではない、儒教の教義が混入したものだ」などと言われます。

 確かに儒教では「孝」を大切にしていることは間違いないですが、しかし仏教でも父母に対する恩を説かないわけでは勿論無いわけで、むしろ古くから強調されていることであります。

 「仏足石」というものがあります。これは仏陀の特徴を示す三十二相の内、「足下平満等触相(そくげひょうまんとうそくそう)」を示す石のレリーフで、インドでは仏像が成立する以前からある、非常に古い様式のものです。日本における最古の仏足石は薬師寺にある仏足石と言われています。

 日本の仏教は仏像の移入をもって始まり、仏像信仰が中心であったにもかかわらず、仏像信仰以前の信仰様式である仏足石が今でもここに残っているのです。

 伝説では、唐の貞観(じょうがん)年間に王玄策(おうげんさく)が天竺(インド)に使いして、マガダ国の華氏城(けしじょう:パータリプトラ市)に至り、そこにあった仏足石の図様を写し取って唐に帰国し、長安の普光寺に置いてあったのを、たまたま入唐した我が国の黄書本実(きぶみのほんじつ)がそれを拝して石に刻み、平城京右京四条に安置した。天平勝宝年間になり文室真人智努(ふんやのまひとちぬ)が画師の越田安満(こしだやすまろ)をして、これをまた石に写させたものであると言われています。

 つまり遠くインドに実在した仏足石の写しが日本にまで到達し、その信仰を伝承し現在までその信仰が残っているということなのです。インドにあったであろうオリジナルの仏足石は既に無く、その信仰も途絶しているにもかかわらず、です。

 この薬師寺の仏足石に付随して歌碑があります。高さ六尺ばかりの青黒い粘板岩に、仏跡を讃えた歌十七首と呵責生死の歌四首が万葉仮名で陰刻されています。そのうちの一首


「美阿止都久留(みあとつくる) 伊志乃比鼻伎波(いしのひびきは) 阿米爾伊多利(あめにいたり) 都知佐閉由須礼(つちさへゆすれ) 知知波々加多米爾(ちちははがために) 毛呂比止乃多米爾(もろひとのために)」


 注目すべきは「父母のために、もろひとのために」というくだりです。これが日本特有の表現かといえばそういう訳ではないのです。

 パキスタンで発掘された井戸の碑文にカローシュティー文字で「第一一一年のシラーヴァナ月の第一五日にこの井戸がアーナンダの子であるサンガミトラによって建設された。ーー母と父を供養するために、一切衆生の利益のために。」と刻まれていました。

 薬師寺の仏足石歌碑に刻まれた歌と同じ内容の表現がそれよりも600年ほど前にパキスタンに刻まれていた事になります。

 和歌の歴史は長いですが、仏足石歌碑に刻まれた和歌は仏教の教えを和歌に詠んだ道歌として最も古い部類に入ると思われます。それは万葉集や古事記が編纂された頃と同年代なのです。その歌とパキスタン井戸碑文と共通の信仰様式を持つことに驚嘆せざるを得ません。

 歌という糸でインドと日本は繋がっていたのです。 

 御詠歌の源流は日本で詠まれてきた和歌とインド由来の聲明(śabda-vidyā-)との融合にもあるわけですが、ここに一つの祖系を見ることが出来るのではないでしょうか。