2019年8月28日水曜日

仏教の世界観を会社に例えると

大乗仏教の世界観を会社に例えると、
我々の住むところは娑婆という名前の会社だな。娑婆社。言いにくいね。
お釈迦様は現役を退いた創業社長だな。

現在の社長は、地蔵菩薩だ。
アルバイトからの叩き上げの雇われ社長なんで、最下層まで顔を顔を出す、マメな社長なんだな。

次の社長になる専務が弥勒菩薩だな。56億7千万年後に社長になることが約束されている。
兜率天という重役の集まる部所にいる。
優秀な人材が専務の元に集まっている。空海とか最澄とか営業部の伝説級のエース社員が弥勒専務のもとに集まっているんだ。

天部の神々は、重役連中だな。
経費使い放題で遊んでいる連中だ。

阿修羅はインテリヤクザだな。総会屋だ。総会を荒してうるさいので、重役待遇にして黙らせているんだ。

閻魔大王は、社長の地蔵菩薩が裁判官の職を兼ねたんだな。社長の社会貢献だ。

龍は会社の水道の管理人だな。一応、管理職だから重役待遇だ。スプリンクラーで水を撒いたりする。社員用プールで暮らしている。

この娑婆世界という会社はブラック企業なんだ。
地獄、餓鬼、畜生という最下層の社員は大変なんだ。
虐げられた社員だな。給料未払いは当たり前。苦しくてなんぼの部所だ。
出世の機会も殆どないが、親戚の社員が施餓鬼を行ってくれれば、良い部所に栄転できる。

他の如来は隣の会社の社長だ。
特に阿弥陀如来は遠い外資系の企業で極楽という会社を経営している。
もう終身雇用、全員重役待遇、理想的な会社を謳っている。地獄餓鬼畜生なんて部所は無し!
常にヘッドハンティングしてる。念仏を唱えるとそっちに就職できるんだ。25人の楽団を引き連れてリムジンで社長みずから迎えにきてくれるという、ちょっと胡散臭い会社だ。
それもそのはず。
阿弥陀社長は若い時、
「俺が社長に就任した暁には、俺の名前を呼んだ奴は全員採用!終身雇用!VIP待遇!そんな会社にするッ!その実力がつくまで、俺は社長にはならん!」と宣言したんだ。
凄い若者だよな!

だから娑婆会社創業社長のお釈迦さまが、阿弥陀社長は大先輩で凄い人だから大丈夫なんだよ、と言っている。
阿弥陀経というパンフレットには世界中の社長が大絶賛!阿弥陀社長!最高!と書いてある。
あまりに胡散臭いので、社員の中の有志が集まって、じゃあ実際に転職して向こうがホントに素晴らしい会社だったらFAXかなんかで知らせてくれ、という話になり、できたのが二十五三昧会だな。
で、夢枕に立って「OK!」とサインを送ってくれたんで、
恵心僧都というジャーナリストが娑婆会社のブラック企業の実態を暴き、極楽社の夢の就業形態のリポート『往生要集』を発表!
みんな、阿弥陀社長のもとに行こう!と大ブームになるんだな。

観音様は菩薩なんだけど悟りを開いているという特別な存在だな。
外資系の極楽社から出向して補陀落社のCEOに就任しているようなもんだ。社長じゃないんだけど最高責任者、みたいな?

不動明王は、我々社員一人ひとりについている頼もしいボディーガードだ。何か悪いことしようとしたり、変なところに行こうとするとぐいっと手を掴まれてこっちだよって言われるんだ。

我々一人一人は、創業社長であるお釈迦様の息子なんだ。御曹司だな。これを佛子と云う。
御曹司だからボディーガードがついてるんだよ。

教育係は普賢菩薩だ。実際の業務を教えてくれる。自宅まで出張サービスしてくれる。

学問分野は文殊菩薩だな。ペーパーについて教えてくれる。やはり出張サービスしてくれる。それで乗り物に乗っているんだ。コンサルタントだな。

我々仏子はいつか自分で会社を企業して独立して社長になれるんだ。
そのためのコンサルなんだよ。急に社長やれっていわれても困るだろ?それでちゃんとコンサルがつくんだな。

苦しみの原因 無明とは何か

 無明とは、誤解を恐れず言えば、キリスト教で言う「原罪」と同じです。

 我々は脳と心を分けて考えますが、脳と心とは一体であり分けることは本来できません。
  また脳は神経によって全身とつながっており脳だけで存在しているわけではありません。また、体も地球という環境とつながっており、空気や重力がなければ存在しえず、地球は宇宙がなければ存在しえません。あたかも自分が自然と切り離されて個別に生きているように感じていますが、その感覚が罪であり、自然・宇宙と一体という感覚が罪でない状態なのです。ですから人に悪いことをしたから反省するというものではなく、もっとスケールの大きいことなのです。

 聖書の創世記ではアダムとイブが知恵の木の実を食すことによって楽園を追われた、という記述があります。自然と自己とが一体であって分別のない状態が楽園であって、悟りの世界にいるのです。ところが知恵の木の実を食べて人間に知恵=分別智がついてしまい、自然と自我が切り離されてしまったのです。これが原罪といわれます。

 つまり、サルであった祖先は自然と一体であり、将来の不安も食料の不安も感じないで生きてきた楽園の状態であったのです。脳が進化して自我が生まれると、将来の不安や食料の不安が生まれます。もはや森の木の上で生活できなくなるのです。自ら食料を生み出さないといけなくなります。これが楽園を追われたということであり、労働が生まれるのです。ですから分別智があらゆる苦しみ・労働・差別・支配などを始めた根本なのです。
 
  あらゆる罪は原罪、つまり無明より起こります。
 悪業は、単に倫理的な側面の罪悪だけを説いているのではなく、分別智によって作り出された様々な先入観によって引き起こされた事象全体を言っているのです。それは無自覚でありますし、いつ始まったとも言えない意識の誕生する瞬間より生まれるものです。

 貪瞋痴は煩悩の代表です。煩悩は、智慧を妨げる心の働き(汚れ)を言います。欲望とも訳されますが、貪は貪りのことで必要以上に物事を欲しがること、瞋は怒ること、痴は無知であることで、これらが様々に混じり合って百八種の煩悩になると考えられています。これらは分別智によって引き起こされるものです。分別智によって比べることをしなければ貪りはありません。必要・不必要という分別も、長いも短いも、多い少ないもなければ貪りようもないのです。怒りや妬むこともありません。比べることができないからです。無知であることもなくなります。

 無知の問題は少し話がややこしくなりますが、ご説明しましょう。

 分別するとは抽象度を下げることです。百合の花を理解しようとすると、あなたはどう考えるでしょうか?花の花弁があって、おしべ・めしべがあって、茎があって葉があって球根がある、これが百合だと思うでしょう。それでは花弁とは何でしょうか?葉となんでしょうか?百合の花という一つの疑問が、花弁とおしべとめしべと茎と葉と球根という六つの疑問に分かれてしまいました。分別は分数と一緒ですので、いくらでも繰り返せます。葉とは何、というと葉脈があって細胞壁があって………と果てしがありません。疑問が疑問を呼びついには素粒子とかクオークとか人類が未だに解明していないような細かい物質まで分割されてしまいます。人類の解明していない物質の総体が百合の花ということになり、それでは百合の花のことを理解していないことになります。これが無知・「痴」ということです。
 このような分別智で引き起こされる貪瞋痴によって心は分断され汚れるので、それが罪という意識となって心を暗く閉ざしてしまう根本原因であるのです。この分別智の一番根本にある原初の心理を「無明」と言います。根本的な無知のことです。

2019年8月22日木曜日

共感力を磨け!

共感力を磨きましょう。

ここで言う共感力とは、人の気持ちがわかる、配慮ができる能力を共感力と呼ぶことにします。
サイコパスの対義語としてのエンパス(共感)のことではありません。
普通に人の気持ちを理解しようとする心構え、それを共感力と呼ぶことにします。

それではなぜ共感力が必要なんでしょうか。

人間の知性は共感力から生まれたと言われています。
例えば、 2人の人間が花を見た時、花が綺麗だね、そうだねとの会話があったとします。目の前に見えている花を、相手が同じ目の花を見ているということを理解してるわけです。つまり相手の心の中を読んでいるわけです。
なんだそんなことかと思うかもしれませんが、数学的に考えると非常に複雑なことをしているわけです。

自分が見ている花=相手が見ている花 =綺麗である=相手も綺麗だと思っている

このような複雑な思考は、他の動物に見られません。

ですから、共感力を磨くのは人間としての能力を高めていくということに他なりません。母親は赤ちゃんの心に共感することで子育てを実現できます。
夫婦はお互いの心に共感することで愛情を深めます。
多くの職業ではお客様の気持ちを察して共感することでそのニーズを見出し、応えることで業績を上げることができます。
およそ人間関係が発生する場所では欠くことができない能力でしょう。

それでは具体的に、共感力を磨く訓練法をご紹介しましょう。

⑴ セリフ連想法
日常的に人と接することがありましたら、相手の心の中のセリフを想い浮かべます。
心の中のセリフとは、よく漫画にある、心の中を書いてある吹き出をイメージします。吹き出しがちょっと丸くなってるアレです。これを想像するのです。
この人は、本音ではこう思ってるんじゃないかとか、
実はこういう風なことを考えているんじゃないか、とセリフを想像するのです。
実際にやってみると最初はそんなに当たらないでしょう。
当たらなくてもいいのです。
だんだん当たるようになってきます。
この訓練をしていると、だんだんと相手の立場で物事が考えられるようになり、共感力が磨かれてきます。

⑵ 讃歎法
次に、実際に会話しなくてもできる訓練法です。
電車でも何でも結構ですから、目の前にいる人を褒めていきましょう。もちろん実際に声に出さなくて結構です。心の中の声で褒めてゆきます。
服装や持ち物や髪型などその人のこだわりを察知して具体的に褒めていきます。
服装や、持ち物でその人の性格や、仕事ぶり、信念など想像を膨らましていきます。
例えば、見るからに喋るのが上手い人だなと思ったら、この人は喋る職業、営業をしている人かなと想像して、会話力が凄いですね、と考えるのです。
電車で疲れて朝から寝ている人がいたら、念願のマイホームを会社から遠い場所に建てて始発の電車を狙って通勤してるんだな、家族思いで凄いですね、とか想像します。これも自分の勝手な思い込みのようですが、それでも良いのです。
これを続けると、自然に人を褒めることができるようになります。

褒めると言う事は共感力と関係ないんじゃないかと思うかもしれません。でもそれはそうではなくて、私たちが共感すべき内容と言うのは、その人の良いところ、こだわるところ、大事にしてること、そのことに共感すべきだからこの方法が有効なのです。

ですから私のようなお坊さんやカウンセラー、そういった方はむしろその人の悲しみや苦しみに共感したほうがよろしいですから、褒めるのではなくこの人の悩みはなんだろう、この人の苦しみはなんだろう、そういうふうにテーマを変えて想像すると良いでしょう。

是非とも実践して下さい。

2019年8月18日日曜日

理想の自分をインストールせよ!実践!普賢行願瞑想

おはこんばんちわ。

今日は皆様に大変重要な修行方法を伝授したい。

自分の人生の目標を立てたのはいいが、それがなかなか実現できない、

そしてふがいない自分を脱却できない、そんな相談をされます。

そこで普賢菩薩つまり理想的な修行者をインストールする密教の瞑想法があります。
ただこれをそのまま実践すると言うのはなかなか難しいことであるし、密教の作法であるので簡単に教えるわけにはいきません。

そこでその瞑想法を一般向けに簡単にアレンジした瞑想法をご紹介します。
簡単にした、といってもシンプルでありながらその効果は本式と殆ど変わりません。ですから安心して実践してみてください。

まず、私の以前のブログを読んでいただき誓願を立てます。
もちろん自分の誓願です。
自分の人生の目標、それを明確にイメージしてみましょう。
リラックスして坐ります。
般若心経をあげるのも良いですね。
呼吸に意識を集中して軽く瞑想をします。

目標が高ければ高いほど、そして時間的に遠ければ遠いほど、それは臨場感の薄いものになります。臨場感が薄いとこれから行う瞑想の効果が低くなります。
ですからここでは自分の遠大な目標をイメージできたら、10年後から5年後ぐらいの自分を思い描きます。
その目標を達成した時の自分から逆算してまだその中間点にいる自分を具体的に想い描きましょう。
どんな服装をしているのか、何を食べているのか、どんな部屋にいるのか、どんな仲間がいるのか、どんな表情しているのか、なるべく具体的に想い描きます。
そしてその近未来の理想の自分を、本当に目の前にいるようにイメージします。

理想の自分を思い描けたら、目と目を合わせてみましょう。
なんとなくつながったイメージが湧いてくるでしょう。

次に、その理想の自分理想の自分を思い描けたら、目と目を合わせてみましょう。
なんとなくつながったイメージが湧いてくるでしょう。

次に、その理想の自分が自分の体の中に入ってくるイメージをしてみましょう。
自分と理想の自分とは重なるイメージです。

その理想の自分がどう感じているのか、そういったことを感じ取ります。理想の自分を先取りして味わうのです。

これをワンセットとして毎日行いましょう。
理想の自分の状態を先取りしてそれを当たり前にしてしまうのです。
そうすると、理想の自分だったらこんなこと朝飯前だよなとか、自分がとても無理だと思っていたことが何でもできる気がしてきます。そうやって自分を勘違いさせるわけです。勘違いしてできるようになれば、それは勘違いではなくて本当に変わっていくのです。

2019年8月6日火曜日

実践!慈悲の瞑想

慈悲の瞑想のやりかた

 毎朝仏壇に向かって次の無量心文を唱えます。座禅や読経の前・または後に読み上げると良いでしょう。声は出しても出さなくても結構です。

私が幸せでありますように
私の苦しみ、悲しみが無くなりますように
私の望み、想いが叶いますように 
私に悟りの光が訪れますように

私の大切な人が幸せでありますように
私の大切な人の苦しみ、悲しみが無くなりますように
私の大切な人の望み、想いが叶いますように  
私の大切な人に悟りの光が訪れますように

私の周りの人が幸せでありますように
私の周りの人の苦しみ、悲しみが無くなりますように
私の周りの人の望み、想いが叶いますように  
私の周りの人に悟りの光が訪れますように

私の嫌いな人が幸せでありますように
私の嫌いな人の苦しみ、悲しみが無くなりますように
私の嫌いな人の望み、想いが叶いますように  
私の嫌いな人に悟りの光が訪れますように

すべての生きとし生けるものが幸せでありますように
すべての生きとし生けるものの苦しみ、悲しみ が無くなりますように
すべての生きとし生けるものの望み、想いが叶いますように  
すべての生きとし生けるものに悟りの光が訪れますように


最初にご自分の幸せを祈ります。
自分が幸せでなかったら他人を幸せにできません。
幸せは内からこんこんと湧き出るものです。外の環境によって左右されません。小さなことでも幸せを感じることができます。
息を吸えるだけでも、息ができない状況を考えると幸せなのです。日常が普通に過ごせることは贅沢な幸せなのです。

 次に祈りは大切な人、他人と広げてゆきます。なるべくリアルに、実際に人々を思い出しながらあの人も、この人も幸せになってもらいたいと思いましょう。

 この無量心文では自分が嫌いな人の幸せを願っています。ここがポイントなのです。自分が嫌いな人、苦手な人、軽蔑する人を具体的に思い浮かべて、あの人も幸せになるように、と唱えてください。最初は難しいと思います。でも無理にでも、口先だけでいいから唱えてみるのです。毎日行っているとだんだんそれが本当になってきます。

 嫌いな人、苦手な人、軽蔑する人は実は自分の心の鏡です。その気持ちが大きければ大きいほど自分の心の嫌いな部分、許せない部分たその人に投影して見ているのです。世の中の全ての存在は自分の心の鏡に映った情報にすぎません。その嫌いな人、苦手な人、軽蔑する人を許すことは、自分自身を許すことになります。それによって得られる心の平安は、宇宙が無限に広がるように心が豊かに無限に広がるのです。