無明とは、誤解を恐れず言えば、キリスト教で言う「原罪」と同じです。
我々は脳と心を分けて考えますが、脳と心とは一体であり分けることは本来できません。
また脳は神経によって全身とつながっており脳だけで存在しているわけではありません。また、体も地球という環境とつながっており、空気や重力がなければ存在しえず、地球は宇宙がなければ存在しえません。あたかも自分が自然と切り離されて個別に生きているように感じていますが、その感覚が罪であり、自然・宇宙と一体という感覚が罪でない状態なのです。ですから人に悪いことをしたから反省するというものではなく、もっとスケールの大きいことなのです。
聖書の創世記ではアダムとイブが知恵の木の実を食すことによって楽園を追われた、という記述があります。自然と自己とが一体であって分別のない状態が楽園であって、悟りの世界にいるのです。ところが知恵の木の実を食べて人間に知恵=分別智がついてしまい、自然と自我が切り離されてしまったのです。これが原罪といわれます。
つまり、サルであった祖先は自然と一体であり、将来の不安も食料の不安も感じないで生きてきた楽園の状態であったのです。脳が進化して自我が生まれると、将来の不安や食料の不安が生まれます。もはや森の木の上で生活できなくなるのです。自ら食料を生み出さないといけなくなります。これが楽園を追われたということであり、労働が生まれるのです。ですから分別智があらゆる苦しみ・労働・差別・支配などを始めた根本なのです。
あらゆる罪は原罪、つまり無明より起こります。
悪業は、単に倫理的な側面の罪悪だけを説いているのではなく、分別智によって作り出された様々な先入観によって引き起こされた事象全体を言っているのです。それは無自覚でありますし、いつ始まったとも言えない意識の誕生する瞬間より生まれるものです。
貪瞋痴は煩悩の代表です。煩悩は、智慧を妨げる心の働き(汚れ)を言います。欲望とも訳されますが、貪は貪りのことで必要以上に物事を欲しがること、瞋は怒ること、痴は無知であることで、これらが様々に混じり合って百八種の煩悩になると考えられています。これらは分別智によって引き起こされるものです。分別智によって比べることをしなければ貪りはありません。必要・不必要という分別も、長いも短いも、多い少ないもなければ貪りようもないのです。怒りや妬むこともありません。比べることができないからです。無知であることもなくなります。
無知の問題は少し話がややこしくなりますが、ご説明しましょう。
分別するとは抽象度を下げることです。百合の花を理解しようとすると、あなたはどう考えるでしょうか?花の花弁があって、おしべ・めしべがあって、茎があって葉があって球根がある、これが百合だと思うでしょう。それでは花弁とは何でしょうか?葉となんでしょうか?百合の花という一つの疑問が、花弁とおしべとめしべと茎と葉と球根という六つの疑問に分かれてしまいました。分別は分数と一緒ですので、いくらでも繰り返せます。葉とは何、というと葉脈があって細胞壁があって………と果てしがありません。疑問が疑問を呼びついには素粒子とかクオークとか人類が未だに解明していないような細かい物質まで分割されてしまいます。人類の解明していない物質の総体が百合の花ということになり、それでは百合の花のことを理解していないことになります。これが無知・「痴」ということです。
このような分別智で引き起こされる貪瞋痴によって心は分断され汚れるので、それが罪という意識となって心を暗く閉ざしてしまう根本原因であるのです。この分別智の一番根本にある原初の心理を「無明」と言います。根本的な無知のことです。
このような分別智で引き起こされる貪瞋痴によって心は分断され汚れるので、それが罪という意識となって心を暗く閉ざしてしまう根本原因であるのです。この分別智の一番根本にある原初の心理を「無明」と言います。根本的な無知のことです。
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