2020年1月28日火曜日

実践!歩き禅

‪それでは今回は歩き禅をご紹介しよう!‬

‪歩いて禅なんか出来るの?と疑問を持つ方も多いと思う!‬

‪だが、仏教ではかなり初期から行われている。‬

‪これはなぜかというと、実は人は歩くと脳波がθ(シータ)波になる。‬

‪θ波は深い禅定に入った禅僧や、学習に没頭している学者と同じ脳波である。それがなんと誰でも散歩すれば出てくるのである!‬

‪それは昔、人類が狩猟採集生活をしていたからなんだ。‬
‪歩き回ってどこに食料があるか、危険な場所があるか、水があるか記憶しないと死活問題だ。‬
‪現代みたいにいつでもコンビニがあるんじゃないからな!古代人は常日頃遭難しているようなもんじゃ。‬

‪だから歩くと脳がフル回転して学習記憶モードになるんだ。そのためにθ波になると言われている。‬

‪この歩き禅で有名なのは知恵第一の仏弟子・シャーリプトラの入信のエピソードだ。‬

‪シャーリプトラがまだ仏弟子になっていない頃、彼はすでにインドを遊行する修行者のリーダーだった。‬
‪弟子も500人もいたと云う。‬
‪彼はお釈迦様より年上だし、一つの教団を成していたんだ。‬

‪そのシャーリプトラが街を歩いていると、1人の修行者が歩いていた。‬
‪その修行者が歩いているさまは、作法にかない、精神が集中し、落ち着き払って、実にみごとなものであった。‬
‪歩き禅をしていたんだ。‬
‪シャーリプトラは驚いてその修行者に教えを乞うた。どんな教えで、だれから教わって修行をしているのかと。‬
‪すると修行者は、「わたしは未熟者ですので説法などできません、師に聞いてください」と言う。‬
‪その師とはお釈迦様だった。‬
‪シャーリプトラは500人の弟子を引き連れてお釈迦様に弟子入りしたんだ。‬
‪シャーリプトラは般若心経でも舎利師として登場する。お釈迦様の一番弟子、智慧第一のシャーリプトラが入信したきっかけが歩き禅だったんだ!‬


‪それでは歩き禅のやり方をお話したい!‬

‪一般的に健康的な歩き方というやつは、ウォーキングの歩き方だ。‬
‪腰を高い位置にして、おへそのあたりから脚が始まるイメージで、腰を回転するようにして、ひざをなるべく真っ直ぐにして、手を大きく振って、大股で颯爽と歩く。‬
‪これはリフレッシュしたり身体を鍛える目的なら大正解なんだが、瞑想にはほど遠い。‬

‪① 先ずはリラックスして立つ。‬
‪上半身の余分な力を抜く。上半身は坐禅と同じと考える。‬

‪② 次に頭を上に伸ばし高い視点になるようイメージする。‬
‪イメージで良い。無理に伸ばさない。余計な力がかかるからだ。‬

‪③ 目は半眼が理想。外を歩く時は危ないので普通の目線でよい。‬
‪いずれにしても地平線を見据えるような感じだ。‬

‪④ 臍下丹田を意識する。‬
‪臍下丹田はへそのちょっと下にある。‬

‪⑤ ひざをちょっと緩めて重心を下げ、丹田が身体の中心になるイメージ、重心は臍下丹田から垂直に大地に落とすイメージ。‬

‪⑥ 歩き出す時に臍下丹田に地平線と並行した一本の線が貫いているというイメージをして、引っ張られているとイメージする。‬
‪丹田を基準とした並行移動だ。‬

‪⑦ 脚の進め方は、ゆっくりめに、摺り足のようにする。‬
‪膝は伸ばしきらない。‬
‪摺り足といってもそんなに特殊な歩き方ではない。‬
‪なるべく地面から足を上げないように歩く。足で地面を確かめるように。スキャンするようなイメージ。‬
‪歩くごとに地面から蓮華の花が咲き、花の上を歩いているイメージをすると完璧。‬

‪しっかり内側の筋肉を使う。内腿・足の内側が長くなるようにイメージします。拇趾球踏み締めて、足の指で、しっかり、送り出す。‬
‪骨盤は、安定させて、股関節で歩く。‬
‪外反母趾や扁平足、アーチの潰れてる人は要注意です。‬
‪外側の筋肉を使うのでそうなるのです。‬

‪⑧ 呼吸は鼻から息を軽く吸って、口からすこしずつ吐いていく。‬
‪歩くリズムに合わせるとやりやすい。‬
‪1歩で息を吸い、2,3,4,5,6と吐いていく。‬
‪或いは1回吸って2回吐く、でもよい。‬
‪これはご自分の身体に聞きながらやってくれ!‬
‪一番気持ちの良い方法でやればいい。‬
‪コツは臍下丹田を意識しながら吐く息を長くすることだ。‬
‪苦しくなるようなら普通の呼吸、歩法に戻ること。‬
‪また、過呼吸にならないように。ゆったりした呼吸を心掛けよう。‬

‪是非散歩の時など、やってみて下さいね!‬

2020年1月25日土曜日

ストレスに打ち勝つ坐禅の力

ストレスに弱い人ほど、自律神経の働きが良くないと言われています。
ストレスに耐えることのできる力を「ストレス耐性」と言いますが、このストレス耐性の弱い人が「自律神経失調症」になりやすいと言われているのです。
ストレス耐性の弱い人とは
1  神経質
2  几帳面
3  完全主義
4  執着心が強い
5  気持ちや感情を強く抑制する
6  マイナス思考が強い
7 気分が沈み込みやすい
これらが当てはまる人は、癌・心臓病・うつ病・胃腸病になりやすいと言われています。
なぜ、これらの心の傾向から抜け出せないのでしょうか?
それは、こういう人は「親の人生」を歩んでいるからなのです。
「幼い時受けた親からの命令」を、深層心理の奥に抱え込んでいる人なのです。
1  神経質
2  几帳面
3  完全主義
これを見ると思い当たるものがある人は多いものですが、
子供の時「かたずけなさい」とか「きちんと最後までしなさい」とか、親からきつく言われたことが多い人です。
すなわちこれらは、自分の自発的な気持ちではなく、「親の気持ち」です。
自分の心の中に、いまだに幼い時に言われた親の言葉を引きずっているのです。
言い換えれば、自分の心の中に「親という自分以外の心」があって、それが命令を出しているのです。
その命令にいやいや従うから、「5  気持ちや感情を強く抑制する」「6  マイナス思考が強い」になっています。
親から怒られるのを極端に恐れているから、几帳面で完全主義になるのです。
親から「手を洗いなさい」と言われたら、「洗ってもまだばい菌が残っているかも?」と不安でたまらないのです。
ばい菌がこわいのではなく、親から怒られるのがこわいのです。
これが潔癖の、真の正体です。
だから不必要なまでに、手を洗ってしまう潔癖症になります。
こういう人がこの問題を解決する唯一の方法は、「自分の心」を取り戻すことです。
自分の心の中にある「親という自分以外の心」があることを自覚する、常に自覚するだけでやがてそれは消えていきます。
なぜなら、自分の心の中にある「親という自分以外の心」は、自分が作りだした幻想だと気が付くことができるからです。
親が植え付けたものではなく、自分が作りだしたものなので、自分で消すことができると気が付くことができます。
これこそがストレスに打ち勝つ精神力を手に入れる唯一の方法です。
自分の心に気づく力を増大させる。
つまり、坐禅・瞑想をすることです。
坐禅を通じて自分の心に気づく事で、自分の人生を歩むことができるようになるでしょう。

2020年1月15日水曜日

日本の寺院の在り方を問う

葬式仏教と批判されて久しい。

現代の仏教寺院の行うことが何かといえば、それはお葬式と年回忌日法要、いわゆる法事だと思われている。

とくに戦後は寺院の世襲化が進み、一般の方々は仏教は葬儀をするものが当たり前で、それ以外の活動はどうも不自然な印象があると思われている。

僧侶が主に葬儀を行うようになったのは、実は約800年ほど昔の鎌倉時代から。

それは風水害の飢饉や疫病で多くの人が亡くなったため、仏教は苦悩を解決する宗教だからこそ死に対する苦しみを取り除くことを行った。

ご親族・故人と親しい方々の苦悩を解決するための手助けをするようになったのだ。

それが葬儀や法事であり、それは当時の民衆の寺院に対する要請だったと言える。

だがその一方で、お灸を据えたり、薬草を採取し丸薬を作り配布したり、病気を取り除く祈祷、坐禅を通じての心の治療なども行ってきた。

このようにご説明すると皆さん一様に驚かれます。葬儀法要だけが寺院や僧侶のお仕事、いわゆる、業務と思っている方が多いのです。

しかし、仏教は苦悩を解決する方法論であり、寺院はそのために存在するのです。

読経、坐禅止観、聞法、写経、御詠歌、こうした方法を用いて人生の苦悩を減らし元気に明日を生きてゆく糧を提供するのが仏教寺院の本来のありようです。その活動の一部が葬儀・法事なのです。

皆様もぜひお近くの仏教寺院にお出かけいただいてその方法論を試して頂きたいと思っております。

2020年1月13日月曜日

いただきます ごちそうさま

食事を頂くときには「いただきます」食後には「ごちそうさまでした」と言いますね。

「いただきます」には、お肉や魚を食べる時に「命をいただく」という意味と、食事を頂けることへの感謝の気持ちを表す意味があります。

考えてみれば、我々は命あるものからしか命をつなぐことはできません。

岩や砂を噛んでも命をつなぐことはできないのです。

これから生きていこうとする生命力を横からいただくことで自分の命を存えているのです。

では「ごちそうさまでした」はどうなのでしょうか・・「ごちそうさま」は漢字で書くと「御馳走様」となります。

ご馳走とは「客のために奔走して材料を集め食事を出してもてなす」ことです。

実は「馳走」は仏教から出た言葉なのです。

仏教では、台所の神さまとして「韋駄天」が出てきます。

韋駄天は、足の速い仏法の守護神として有名です。

お釈迦さまが亡くなられた後、仏舎利(ぶっしゃり)を奪って逃げた「捷疾鬼」を追って、仏舎利を取り戻したというお話から「韋駄天」と言うと足が速い形容詞になったのです。

その韋駄天が、お釈迦さまの為に駆け回って食材を集めてきたという話もあります。

仏教の本来の「馳走」とは、この韋駄天の話から、食事だけではなく「他の人の為に奔走して功徳を施して救う」とか「苦しんでいる人を助けること」をも馳走と言います。

食事も実は止観であり修行と同じであると天台宗では考えます。御馳走によって大変意義深い修行をさせてもらい、命を繋がさせていただける、そのお礼が「ごちそうさま」という言葉なんですね。